神話の視座とわたしの祈り──アマテラスとスサノオのあいだで
山の頂に立つのは、観音でアマテラスのような存在
その隣の島には、人々が暮らす集落があり、土着の神が祀られている
獅子舞は神の依代であり、狼は神の使い

人々は山を背に、海に向かって漁に出る
牛や馬とともに働き、限られた低地に家を建て、小さな島々に囲まれながら暮らしている
この島は、凪を待つ船が集う場所だった

今は、面影を残しながらも島民は減り、海に出る人も少なくなった
栄えていた時のことを思い出す。しかし、その記憶は私の生まれるもっと前の記憶…
土着の神は、人々の祈りの塊。
見えないけれど、そこにあるもの
良い祈りも、悪い祈りも、原始から現代まで、ずっと途切れずに受け継がれてきた
人々の「思い」は、目には見えないけれど、無意識の海に波紋のように広がっている。私たちは、無意識を共有し続けているのだ
アマテラス的なものと、視座
視座を変えると、見える世界が変わる
その広がりは、人に対する寛容さや、冷静さにつながっていった
誰かのせいにしていたことも、自分の内側に原因があることに気づけるようになり、本当に現実にあった出来事でさえも、少し距離を取って見ることができるようになった。そうすると、不思議と「許し」の気持ちが生まれてくる。
スサノオ的な存在と、神というもの

山にいる獅子舞は、スサノオ的な存在
現実に近いところにいて、神というものの「象徴」のような存在
私の中にある神は、ただそこに存在するだけのもの
生きるものも、死にゆくものも、ただ「見ているだけ」
救うわけでも、導くわけでもなく、ただ見守るだけ
「なぜ祈るのか?」
「祈りは届くのか?」
それでも、祈りは続いていく
人々が祈る気持ちは、古代から変わっていない
祈りには形がなく、でも確かに存在している
そう考えると、人の思いは、目には見えなくてもこの世界に遍在しているのだと感じる
そして、無意識の中で私たちはつながっている