自由にはじめて良いとのことで、箱の砂や人形を見てさわって確かめる。
壁一面に並べられている人形などをさわってみたけど、しっくりこない。
何も無い箱庭をながめながら、砂をさわり、自分のこころの向くままに手を動かすことを決めた。
目次
箱庭とは?
「浅い箱に土や砂を入れ、小さい橋・家・人形などを置き、木や草を植え、庭園・山水などに模したもの」
をさすようです。
箱庭療法とは?
箱庭になにをおく?
「人形じゃないな」
「このままやろう」
まずは平らにしないといけない。
箱庭の砂を平らにしていく、できるだけ均一に。
そして、「在る」の対比「無」をつくらないと、
「先生、なぜ砂の下は青なのですか?」
ふと聞いてみたが、指の感触と、こころの動きに思考を挟みたくなくなり、そのまま指を動かし続けた。
指で箱庭をつくる
はじまりは「丸」だとおもい、指で砂を真ん中に丸をつくっていく。
「あぁ、うまく丸にならない。けどこれでいい」
やり直しの思考ははさみたくない、このまま動かし続けよう。
指や道具を使って、頭にあるビジョンを目に見える形として砂に刻んでゆく。
出来上がった箱庭にわたしは納得した。
カラスと目が合う
ポイントは、このカラス。
カラスはここがいい。
ここでしかない(今は)
このカラスは、この作業の間もわたしを眺めている。わたしがどうなろうと眺めている。
もっと原始的に儀式的に
「人がここにはいないなぁ」
置けるものは自然物のようなもの、
「うん。石だ」
そうだね、石だね。と先生もいった。
ここは、私自身もよくわからなかった。
円の中央には、なにも置く予定にしてなかったが、コロコロと手の中で石を遊ばせて、なんとなく、丸のなかに置いてみた、置いてみるとしっくりきた。
石の意味を考える
この石の中にねぎしさんはいるの?と先生。
「ピンクは母親」
「水晶とその横の石はこども」
父親は?と先生が聞いたので、
「黒が父でいいかな」
その他の石は?
「その他のなにか、なんでもいい、そのときで変わるかもしれない」
「そして、、、木がわたし?木がわたしになるね」
中心にいるのが、ねぎしさんだね?
「、、、こう並ぶと、そうなる」
中心にいることがわたしなのかと、今、考えてもわからない
「けど、、」
あのカラスもねぎしさんでしょう?
先生の言葉に、
「そう!あのカラスも、わたし!」
そうしてこの状況も見ているねぎしさんがいると?
「そう、いまの状況を見ているわたしがいる」
青い部分を黒く塗ってみました。
セッションを終了して思うこと
一通り話して落ち着いたら、今回のセッションは終了した。
わたしは心の中にある「無」のことを、一通り説明してスッキリしていた。
それにしても、あのカラスを置いたわたしは天才かもしれない。
あそこにいないといけないんだもの。
なんでも創作しているときは、自分が天才かもしれないと思えてくる。
が、出来上がったものをみて、やはり凡人だとガッカリする。
何も目新しくない。
チベットの砂曼荼羅
チベットで砂曼荼羅は描いたら消す話を先生が教えてくれた。調べてみて、それが正解なんじゃないかと思う。二度と同じものと出会えないその瞬間、瞬間存在して無くなる。
「諸行無常」
最後にできあがった箱庭をもと戻す
セッションが終わり、箱庭をもとに戻す。
悲しい気持ちになるのだろうか?
自分のこころを観察する。
箱庭はあっという間に砂だけの状態になった。
平らでもない。ボコボコと底の青がみえている。
これでいい。
とらわれなくていい。
自由でいい。