今回は個人セッションの日。
箱庭を置きに宝塚にある夢告堂にいってきました!
目次
箱庭をブログにするべきか?
こうして箱庭についてブログにするべきか?しないべきか?毎回考えます。
なぜなら、、箱庭は個人的なもの、心の暴露になるため、公表は控えるべきであると考えられているからです。
しかし、わたしに出来ることは書くことなので、書き続けていこうとも思いました。
また、考えが変わればその時考えればいいかと、
箱庭に現れるもの
箱庭には、とても繊細に、こころがあらわれています。ときに、恐ろしくなることもあるくらいに、、、、。
話は変わりますが、以前3人で行った「ミニ箱庭研修会」のあと、カフェでお茶をしました。その時わたしは、
と、言ったことがあった。
今、文字におこしたら、「嫌なことを言ってるな自分」と再認識してしまった。
実際にその後、調子が悪くなって死ぬ思いをしたので、こころの取り扱いは本当に慎重にていねいに行わなければならない。
今回の箱庭
毎回出てくる、フィギュアを動かしてみたら、どんなこころの変化があるか、感じてみたかった。1人でするには怖さあったので、今井先生の前でやりたかった。
あぶない、あぶない
前回の箱庭を写真を見ながら作り直し、フィギュアを動かしてみた。
予想をしていた反応はおきない、、、、、。
すると、今井先生から声をかけられる
「それはどうなった」
「動けなくなった」
「そうか動けないな」
「うん、動けない」
困った、ここからどう動いていいかわからない。
悲しいような、無感情のような、何も感じていないような、感じないふりをしているような、、、、、感じないふり?
感じないふり?
困り果てていると、この状況がちょっと面白くなってきた。
なんだか、このフィギュアたちが面白く、滑稽に思えてきた。
「なんだか、このフィギュア滑稽ですね」
すると、今井先生は、
「滑稽か滑稽にみえるよな」
そういうと、こちらを見た。
「うん。滑稽にみえます。なんだろう?」
フッと緊張していたものがなくなり、目の前にあるフィギュアや箱庭が、わたしが、今井先生が、そこ在るだけ
「なんだ」と納得した。
「刺激の数だけ、恐怖を感じているのかもしれない」
わたしは「それ」を感じないふりをしていた。
そして「それ」が「恐怖」を生み出していたのだ。
船に手を伸ばし、動かしてみた
わからないことに恐怖を感じるのは自然なこと、恐れて身動きが取れなくなっているだけでだったのだ。
恐怖を作り出していたのはわたし?
そのままの状況を、すこし俯瞰してみる。
そうすると、高まった感情はゆるやかに静かになっていった。
次に「この感情」がうまれた時も、荒れていても、そのまま受け止め、凪いでいくまで置いて置くのも良いのかもしれない。ただ在るものをみる(事実をみる)
「今わたし、怖くなっているな~」
「今わたし、やりたくないなぁ~」
感情をすこし俯瞰して見てみる。否定するのではなく受容できるようになることも大切なのね。(練習が必要そうだけど、、、)
箱庭を終わって考えたこと
「しなければいけない!」て誰に言われているんだろう?
自分の思いグセで、自分にそう言い聞かせているんじゃないだろうか?
あんまり、自分を否定していると、ひねくれてしまいそう。
「あの人が不機嫌なのは、わたしのせい?」
あの人のせいなんだって、分かっているけど、自分を責めるから、どんどん苦しくなっているんじゃない?わたしをそんな扱いをしている「わたし」はなんてひどいヤツだろう?
自分いじめはやめよう
人は様々な仮面をもつ。
一貫性を持とうとするからしんどくなる。
どんな自分でもいいんだという「安心感」を何処かに忘れてきたのかもしれない。
ずっと受け継いできた「呪い」なのかもしれない。
そして行き着くところは「やっぱり人間は面白い」と思ってしまう私である。